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会計事務所の所長ってどんな人? 頭カチカチの陰気なおっさんってイメージをお持ちじゃありませんか?

ここではいろいろと誤解の多い所長像を崩そうと、できるだけ素に近い所長の姿をお伝えします。

ごあいさつ

弊会計事務所は、平成8年6月に開業して以来、「顧客の立場にたったサービス提供」をモットーに務めて参りました。

 「光陰矢の如し」、気付けば創業20年を経過して、いつの間にか周りから中堅事務所と言われるようになりました。その間に上場会社から中小零細会社に及ぶまで幅広い会計・税務の仕事を手がけてまいりました。

 現在では一般的な会計・税務・経営助言の業務にとどまらず業務範囲も大きく広がり、公益法人・医療法人や創業、企業再生と広範囲に及ぶ業務、さらには資産税等にも積極的に取り組んでおります。

 昨今は業務内容がますます高度化してきていますが、それらの高度化した内容を平易な言葉で解り易く説明し、お客様に充分な理解の中で意思決定をしていただくという姿勢を堅持することが弊事務所にとって一番大切な業務態度であると考えております。

 また、会計事務所という業務形態で禄を喰む以上、社会一般に「会計」の有用性を啓蒙していくことが社会的使命であると考え、日常業務の基本に据えております(ちょっと大袈裟ですが...。)

所長経歴

昭和35年 7月 生まれ

昭和58年 3月 関西大学文学部史学地理学科卒業

昭和58年 4月 (株)東急観光関西修学旅行センター入社

平成 3年10月 監査法人朝日新和会計社(現あずさ監査法人)入社

平成 8年 6月 野垣公認会計士・税理士事務所開業

平成10年 9月 監査法人TKA飯塚毅事務所社員就任

平成12年 5月 監査法人TKA飯塚毅事務所代表社員就任

平成13年 7月 新日本監査法人代表社員就任(監査法人TKA飯塚毅事務所と新日本監査法人との合併にもとづく)

平成15年 6月 新日本監査法人代表社員を退任。野垣公認会計士・税理士事務所の経営に専念し、今に至る。

平成21年 7月 TKC近畿大阪会専務理事就任

平成28年 7月 TKC近畿大阪会会長就任 

コメント

 上記の経歴を見てご理解いただけるかと思いますが、私は元来会計や税務の業界の人間ではありません。高校時代はアメリカンフットボールの大阪代表、大学時代はロッククライミングに没頭して冬の北アルプスやヨーロッパアルプスや韓国などを股にかけて(何と年間180日くらい山に入っていました。)いました。まさに体育会系そのものですよね。社会人になってからは東急観光で修学旅行の営業をバタバタと勤めた(そんなに出来のいい営業マンではありませんでした。残念ながら...。)あげく、結局は雪山に戻ってスキーのインストラクターやパトロールで飯を食っておりました。

 でも、人間どこに「人生の転機」が転がっているのかわかったもんじゃありません。私の場合には、行く行くは自分でもこんなスキー学校を経営して、うまくいけばペンションなんかも併設してというような「人生の青写真」を描き始め、丁度そのタイミングと相前後して夏場にカヤック(カヌーの一種です。)の教師として働いていたペンションの決算申告書を偶然にも目にしたことがきっかけでした。

 私はオーナーに断ってその決算申告書をコピーさせてもらい、簿記の知識は皆無だったのですが、本屋で簿記の初歩の解説書を買いこみ、業務の合間を縫ってオーナーに質問などもしながら、1週間ほどかかって見よう見まねで読み込んだ(今から思えば5分もあればあっさり分かることなのですが...。)のです。「虚仮の一念岩をも通す。」とはよく言ったものですが、何とその試みの結果、そのアウトドア学校兼ペンションの現況や問題点が手に取るようにわかり(大げさではありません。)、そのオーナー自身が問題点を明確に理解しているわけでもないことに気が付いてしまったのです。まさに雷に打たれたような出来事でした。

 結局、その一事が私の脳裏に深く刻まれて、28歳のスキーシーズン終了のタイミングでもって、海の物とも山の物とも予想がつかなかったのですが、あの感動を世間に伝えるべく公認会計士になろうと、嫁さんのヒモになり下がって、資格試験の勉強を始めたのでした(この時の嫁さんへの借りが未だに大きく響いています。)。

 紆余曲折の末、3年間で公認会計士の試験に合格し、この会計や税務の世界に31歳で飛び込んで以来、ひたすら「会計」が持つ有用性の水先案内役を務めるべく働いてきたように思います。これがきっと私のライフワークになるのだと思っています。 

所長のブログ

結構スポーツマンの私です。

平成19年 5月 3日にアメリカンフットボールの高校の大阪代表対兵庫代表のOB戦(アンカーボウル)にオフェンス、レフトガードでフル出場しました。まだまだやれると意を強くする一方で、筋肉痛というよりも関節や筋が切れるかというくらいに痛みました。「年寄りの冷や水」とはこのこと? 試合は7対0で大阪代表OBチームが勝ちました。

平成20年 5月 3日にも再びオフェンス、ライトガードとして出場しました。敗れたのでスコアも忘れてしまいました。残念!

今年もやっぱり出たぞー。

平成21年 5月 3日もアンカーボウルに出場です。今回はかつての池田高校の同期周辺のメンバーと池田高校のオフェンスユニットを組んで出場です。私のポジションはセンターです。日頃使い慣れていない筋肉を酷使して、その後に激痛に見舞われました。大阪代表のオフェンスの中でざっと半分のシリーズに池田高校ユニットとして出場させてもらい、タッチダウンも奪取しました。兵庫代表OBチームに圧勝でした。試合に勝ったことより、30年ぶりにかつてのメンバー(体形的には様変わりしていますが...。)と試合ができる幸せを噛みしめました。部分的にはかつてのファイターだった頃の片鱗を窺わせるプレーもあり、心の底から楽しめました。後の飲み会も心底騒ぎ、楽しみました。何だか涙が出そうなくらいに楽しかったです。 平成22年 5月 3日もまたまた出場です。もう病み付きになっています。今年も池田高校のオフェンスユニットでセンターのポジションでした。今年の池田高校ユニットの活躍は今一歩。事前に練習までしていたのですが、回り合わせが悪く、タッチダウンは奪えませんでした。試合は大阪代表の勝ちでしたが、ちょっと不完全燃焼感が残りました。その後の懇親会が楽しかったので、まあいいか。昨年まではこんな試合に出れるのもあと何回?みたいな気分がありましたが、これは結構ジジイに なっても出れるのではないかという気になってきました(妄想?野望?)。

ススイのスイーーーー!

今から20年程前、ハチ北スキー場でパトロールをしていた頃のスナップショットです。太腿まで潜る深雪を気持ち良さげに滑っています。最近も年に1~2回は滑りに行きます。主に温泉とコタツでの昼寝が楽しみになってしまいましたが...。

大台ケ原ヒルクライムレース

ロードレーサーに乗っています。大台ケ原ヒルクライムレースには今年で4回目の出場です。標高差1,260m、28km、傾斜が10%前後の劇坂区間が非常に長いハードなレースですが、完走を目的に走っています(残念ながら下から2割のグループに入っています。)。結果は以下の通り。

     2006年  2時間19分34秒

     2007年  大会中止

     2008年  2時間34分19秒

     2009年  2時間26分30秒

     2010年  2時間14分43秒

なんと今年は、自己記録を更新しました。ゴールデンウィーク前からダイエットに取り組み12kgの減量に成功した(というよりゴールデンウィーク前に史上最高体重を記録していただけなのですが。)効果と、ちょこちょこと隙間時間を作りだしてはトレーニングに取り組んだ効果が出たのだと思います。丸々と太り、体力的にも劣えが見え出して、もうロードレーサーに乗れなくなるのではないかと危惧する状況に何とかストップをかけることができて満足しています。

仕事が忙しくなったり、お客様について心配な案件が出てくると、それに引っ張られて精神的に参ってしまい、ついついロードレーサーに乗る気力も萎えてしまいます。今後も長く元気に仕事を続けていくためにも、ロードレーサーを通じてストレスの発散ができるビタミン剤の様な存在で、この趣味と付き合っていければいいなあと祈念しています。 

吉野山岳グランフォンドin吉野

平成22年 7月25日にロードレーサーで吉野の大山岳地帯を走りぬくグランフォンドに出場しました。

今年はロング・イーストコース(総距離 170km、最大標高差961m、累積上り標高差4,660m、平均上り斜度7%、平均下り斜度6.7%、制限時間10時間)を完走しました。昨年はロング・ウエストコース(総距離140km、最大標高差978m、累積上り標高差3,752m、平均上り斜度7%、平均下り斜度6.8%、制限時間10時間)をヘロヘロになりながら、チームの皆に支えられ何とか完走しましたので、そのバージョンアップ版です。

今年は事前に減量(10kgの減量に成功)に取り組み、仕事の合間の細切れ時間で練習にも励み、事前準備としては精一杯の取り組みができていました。しかし本番はやはり厳しく、朝7時に吉野下千本駐車場をスタートしてから17時ちょうどに同場所にゴールするまで、カンカン照りの熱射の中で、喘ぎながら何とか気力で単独で走り切ったという感じです。途中に大きな峠が4ケ所あるのですが、その中でも足ノ郷越と大峰山の南側の五番関越が非常に厳しくて、足が壊れる直前までダメージを負いました。結果的には制限時間の30分前にゴールしましたが、本当に厳しい大会でした。

7月26日で50歳になるのですが、節目で自分ながらに誇らしい区切りをつけられたと思っています。写真はゴール後の完走承認手続き直後のホッとした瞬間を仲間が写してくれたスナップです。あまりにしんどくて、笑顔がひきつっています。